論語を読もうと、本屋を覘いてみる。
ふと目にしたのが、安岡正篤先生の『論語に学ぶ』(PHP文庫)だった。
初めに載っているのが、「論語読みの論語知らず」という、昭和44年の講座だ。
”論語を知らぬものはない。
また読まぬものはないけれども、大体は論語読みの論語知らずに終わっておる。
これは決して他人を責めるのではない、お互いにそうだということです。
そうして本当の事がよくわからぬ人間が集まって、てんやわんやと騒いでおる、というのが今日の時代であります。
そこでこの時代、この人類は如何にすれば救われるかとなると、やはり学ばなければならない。
正に論語に言う通り「学ぶに如かざるなり」であります。”
安岡先生をしても、「お互いにそうだ」と言わしめる論語。
昭和40年代の講座が、平成の現在にも、そのまま通じる内容を持っている。
これが、論語の持つ魅力でもあるのだろう。
”お互い大いに学ぼうではないか”という先生の声に、背筋がピンとした。
この本で、一番感じ入って、自分は海老になりたいと思う一節があった。
海老の体が曲がっているのを、「お前百まで、わしゃ九十九まで…」という意味にひっかけて、芽出たいことに使う、と思っている人が多い。
しかし、これは誤りだと先生は語る。
海老は、生きている限りは殻を脱ぐ。
殻を脱がなくなった時は、海老の死ぬ時だ。
ということは、海老は、常に新鮮柔軟である。
だから、芽出たい。
春の蝶にはなれないけれど、せめてなりたやコオロギに。
そう言い聞かせてきたが、これからは、海老になろうと決めた。